なんだこれは

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「二度とあやまちは繰り返しませんから」すまん、アレは嘘だった。

広島の石碑には「二度とあやまちは繰り返しませんから」と書かれています。でも日本人は歴史に学びません。表面的には学ぶかもしれないですがわかっていないのです。

今回の震災、原発事故に「全部うそだった」と「だまされていた」というそうです。そうですよね、第二次世界大戦のときも、日本人は皆「だまされていた」のです。誰に?
自分たち自身に。そう、「あやまち」は繰り返されました。


今回の震災、原発事故でもそれ以前は、政府などは、「原発は安全だ」「津波はここまで来ない」「非常用電源は二系統あって両方使えないなんてない」と言いました。

それはとってもうれしいな。
だってこれを信じる(フリをする)だけでいいのですもの。

これを妄信的に信じる(またはフリをする)のは非常に楽です。疑わなくていいし、たぶん疑い深い人といわれなくて済むし、周りと同じ意見である、いや特に意見がないという表明は非常に好かれるものです。

その一方で、そんなことはない。内側から「危ないよ」と指摘していた人もいました。そういう主張するということは非常に面倒くさがられます。阻害されます。排除されます。だって他と違うから。みんな他と違うことを隠して(我慢して)生きているのに一人だけ自由だから。全員が同じことを思っていないと嫌だから。あと、偉い人がいってるのにお前はなんで反対するんだとか。

それにその問題を指摘したところで、「不安にさせるだけ」「具体性がない」「起る可能性は低い」などと相手にされません。これは上の人が言い出さないと通らないのです。立場が下の人が気がついたとしてそれを上の人が受け入れてくれることは稀なのです。

それで信じる/だまされたフリをする。さぁ、誰が誰をだましたのでしょう。ひとりひとりが自分自身をだましたのではないでしょうか。上からいわれたこと、周りからいわれたことを検証することなく受け入れる。それはだまされたのですか?いいえ、だまされることを望んだのです。自分自身が自身をだましたのです。

このことは、第二次世界大戦中にも起きていました。みなうすうす気がついていたのだけど、言わなかった。「言える空気ではなかった」のでしょうか?違います。空気の所為にしているだけで、言わないと判断したのは私たち日本人なのです。空気なんか読むモノではありません。どこに字がかけるというのですか、空気はつくるモノです。

つまるところ、私たちひとりひとりの意識を変えないことには、同じパターンのことはいくらでも起きるでしょう。これからも、上が奇妙な計画をたて、安全だといいはり、妄信し、破滅し「事前に気がつくことは出来なかった」「想定外だった」「事前に誰も気がつかなかった」と上は愚痴り、下は「問題点を指摘する空気ではなかった」「言ったが聞き入れてもらえなかった」と愚痴るのです。

すみません、私たちは何も歴史に学べませんでした。またあやまちを繰り返してしまいました。