なんだこれは

はてなダイアリーから移転しました。

全ての個体が、別個に感情を持ちながら共同幻想をもっている社会なんて、想像だにしなかったからね

どうにも、まどか☆マギカのまどかが、あの祈りを捧げることで、宇宙の改変を行うのはわかるんだけど、上のレベルの存在になるという理由がよくわからなかった。しかしなんとなく違和感を感じなかった。それについてぐるぐると考えてみた。

日本的な それはとっても嬉しいなって

最近の身の回りの方々を見ていると、しっかりしたものをもっていないように思える。魂とか信念とか我とか、そういう方向や指針を現すものだ。どうも、そういうものをもっていると、周りと協調できないと思われているようだ。

そういう主張をもっていると、どこかでまわりと違う意見を持たなければいけなくなる、それを恐れているのだろうか。

僕と契約して は 日本的ではない

アメリカやヨーロッパでは、主張が重要で、それらを議論で決定していく。違ってるのが当然だから、話し合いで決める。それにはひとりひとりがしっかりと主張する。

一方日本は寄り合いで、みんなが関係ないことまで含めて皆で言いたいことを話し、全員がしかたがないと思った頃に終える。腹を割って話すというか、猿の毛繕いというか同一の群れであること、同じであるという思い=共同幻想の確認が重要なので、個を突出させないようにしているのだ。

どちらがいいか、わるいかではなく単にこのように違っているということを理解しないといけない。そのように社会の条件や前提が違う上で、同じように多数決をしても効果は全く異なるのは当然だろう。

空気そのものに対する反逆 と 鹿目まどかという、存在の結末

そういう意味では、まどかの祈りは、暗黙のルール(=空気)の変更であってとても欧米的だった。他のさやかやまみさん達の祈りは一人一人のレベルの祈りで、影響範囲がすごく狭い。まどかは、欧米的な祈り*1を捧げて、この手でやると宣言し、その宣言のために自己(濁ったソウルジェム)をも殺し、あまりにも周りと違ったので、村八分的に日本的な世界にもどれなかったのではないだろうか。そう日本的に、神へと祭り上げられたのだ。

*1:ルールや原則を変えてしまうのは欧米的なゲーム理論的な考え方に相当する