これからそいつを殴りにいこうか?
"YAH YAH YAH"について何かを書くことになっていたので書くことにする
丁度日付の9/11とは、何かの縁だろう。
何かを失わされた、奪われた者への応援歌のようでいてそうではないように思える。怒りの表明。鼓舞?単に奪われたものではないんだ。"信じる言葉"つまり自己を失わないための戦い、心のありよう、方向性言い換えれば魂が大事なんだと言ってるんだ。
そこででてくるのが、"これからそいつを殴りにいこうか"
fu7mu4にはこれが、疑問文に思えてならない。これからそいつを殴りにいこうか?
いつ?
そいつって誰?
殴るってどうするの?
行こうかって誰が一緒に行くの?
または、本当に殴っていいのか?
殴られることになるそいつも誰かから奪われてそうなっているんじゃないのか?
本当にそいつなのか?不当なレッテル張りじゃないのか、とね。またそれはついてくると思っている人にも言える。
法律やシステムや無関心の手足となってさせられているそいつを殴るだけでいいのかい?とね。
それでも"つかんだ拳を使えずに 言葉をなくしていないかい"と自己言及してくる。やるんだ。難しくてもやるんだ。とね。
なんとも恐ろしいことを難しいことを高揚感の中に勧めてくる。それは君のすることだよと。"その記になればいい"と。