物語工学論によると、物語は最初に主人公らになんらかの欠乏、足りないものがあり、それを埋めた時点でおわる。つまり、シルヴァスタインの「ぼくを探しに」には非常に抽象的だが、簡潔にそういうことを現している。
何かが足りない
それでぼくは楽しくない
足りないかけらを探しに行く
ころがりながらぼくは歌う
「ぼくはかけらを探してる、足りないかけらを探してる、
ラッタッタ さあ行くぞ、足りないかけらを……」ぼくを探しに
物語の主人公は、なにかが足りない。なにかが欲しいまたは足りないことにきがついていない。
たとえば「けいおん!」の一期を見てみよう。主人公の唯は、ちゃんと主人公をしているのだ。「何かしなくちゃいけないんだけどなにかよくわからない」これが最初のたりないこと、焦燥感になる。
つまり、この焦燥感というかGoalに向けて進むことになり、最終的に主人公が何かを手に入れると物語としては終る。「けいおん!」の一期では唯がギターに出会え、舞台で演奏して終る。
あたかも「足りないこと」をエネルギー源として、物語は前に進む、進展する。ということは、「足りていること」が物語上、0もしくはマイナスなのだ。だって話がすすまないから。それはドラマを進める動力にならないのだ。
しかし、しかしである、ドラマをすすめなくてもよい「物語」というものもある——「反物語」とでもよんでもよいが冷静に考えると「非物語」だろうか、——それが日常系だと思う。
では、どのような仕掛けになるのかというと、最初の落差、「足りないもの」をちいさくしてしまえばいいのである。もしくはなくしてしまえばいいのである。そうすると、物語が前進する必要性がなくなってしまう。終着点へのハードルが低くなり、到達点がはっきりしなくなる。こうして終わりのない日常が発生する。非物語には進むべき方向がない。だってそこがゴールだから。
けいおん!は物語としては非常に落差が小さい。高校生活で何をすればいいんだろう、その程度なのである。そして軽音楽にであえ、それをする。つまり物語としては端的にここで終ってしまっている。つまりそこから物語ではない非物語=日常が語られる。つまりある意味で終った物語とも言える。ただし、らき☆すたのように最初から日常という日常系というものもある。
また、日常系にもなんらかのゆっくりとした変化がある場合もあるし、終わりがくる場合もある。多くはそれが時間/時系列だろう。たとえば、「けいおん!!」ではゆっくりであるが卒業にむけて、ゆっくりと日常が進んでいく。そういう意味では、弱い物語といえなくもない。
日常系には散発的に提供される話題があり、あくまで散発的に出ている場合は、話題と話題に関連がない場合には、冷静にみると順番を入れ替えても成り立ってしまう。ここでは単純に時系列が存在しなくなってしまう。
↑ | 物語性が高い、完成に向う |
主人公に目的意識があって、状況が変化していく | |
話題/エピソードに時系列が存在し、なんらかのつながりがある | |
話題/エピソードに時系列が存在せず、散発的 | |
↓ | 日常系性が高い、状況に変化がない、完成 |