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輪るピングドラムのための「かえるくん、東京を救う」について

輪るピングドラムのための「かえるくん、東京を救う」について思う所をかいてみる。

基本的にアレなないようなので、見ない方がいいかもしれない。

「かえるくん、東京を救う」

輪るピングドラム9話にでてきた「かえるくん、東京を救う」は、まず、村上春樹の短編であって本の名前ではない。「神の子どもたちはみな踊る」に含まれている5番目の短編。

この東京というのは、だめだめな中年である主人公の大事とするところ、信念、信条のようなものと考えられる。

Amazonにはこの「神の子どもたちはみな踊る」の「かえるくん、東京を救う」の感想があり、私の感想に近い。

関西大震災を題材として,人が生きてゆく上での心の支えや,生きる原動力,あるいは常識だとか日常,人生観などというものが,いかに脆くて儚い虚構であり,夢幻のようなものであるかということを描いた作品だと感じた。 

現実というのは,人の心の中心にあるそれら真実とは似て非なるものであり,また時としてそれを大いに裏切る。たとえば大震災という出来事が現実として起こり,それまで人々がどっぷり浸るように信じきっていたモノが根本から徹底的に破壊されたとき,人が直面するものは一体何なのか,ということを筆者は考えたかったのではなかろうか。

『super-frog saves tokyo』という物語で,金融機関で働く主人公のもとに突然現れた大きなカエルが,東京の地下に潜む巨大なミミズを『退治する,退治しなくてはならない』 と言う。それはカエルにしか出来ない仕事であり,それで東京を救うのだ,と信じて疑わない。そしてある日,巨大ミミズとの死闘を演じてきたカエルは,力尽きるも自分が世を救ったのだと信じて,満足げに死んで,朽ちてゆく。

カエルにとって『巨大ミミズとの闘い』というのは,カエルの心の中心に据えられた大いなる虚構であり,同時に人間一人一人が信じきっている『真実』というものを表している。それは人の生きがいでもあり,本人にとっての常識であり,あるいは日常と呼ぶべきものだ。それは仕事であったり,子供であったり,ポジティブなものやネガティブなものであれ,何にせよ本人にしか見ることの出来ないモノである。人の心はその虚構によって支配され,また虚構のために生きて働いて,それに命をかけて,力尽き,最後は死んで土に帰る。つまり,このカエルというのは主人公自身であり,また人間の誰もがこのカエルなのである。

http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%BF%E3%81%AA%E8%B8%8A%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%91%E4%B8%8A-%E6%98%A5%E6%A8%B9/dp/4101001502

村上春樹

そしてまた、独特の比喩、暗喩を駆使する小説家で 1995*13月20日*2東京の地下鉄 丸の内線*3でのサンシャイン60通り*4での例の事件のあとにインタビューの本をかいている。

例の事件とかいたのは、おそらくそれをあのアニメ内で明示しないだろうと思うからだ。

そして、アレを扱うならば、オープニングの危うさはあの事件の危うさに近いものを感じるし、陽毬の両親がなくなった理由もおそらくそれであって、さらに最後に学校に行った日が意味するイジメの理由もそれだろう。

子供ブロイラー

子供ブロイラーはそのまま、赤ちゃんポストを、意味している。それは七つの大罪の「理念なき政治」が書かれているから

おまけ

りんごは七つの大罪で考えれば、「人格なき知識」りんごとペンギンを考えれば、MacLinuxになる。村上春樹Macユーザー。

*1:オープニングでひっくり返る数字が95

*2:9話の図書館の返却日が3/20

*3:舞台

*4:水族館名がSunShine